20240220

友だちのあんずちゃんが家まで来てくれて、初めてのPodcastのゲスト回を録った。マイクの位置をてきとうにしてしまったからか、自分の笑い声が異様に大きくてちょっとどうしようか…という感じだけど、できる範囲で音質を整えたい。これからも友だちと喋る回を録っていきたい(ゲストとして呼びたい友人が何人かいるし、いろんな人と雑談したい)ので、ちゃんとしたマイクを買おうかなあ。

今年になってから無印の単行本ノートに手書きの日記を書いている。その中で気が向いたときにはてなブログにも書き起こしてみたり、書き起こしながら少しずつ文脈を変えたものをアップロードしたりしているのだけど、書けていなかったここ4、5日の分を一気にノートに書いたら何だか疲れてしまった。たくさん歩いただけの日なのに、書ける分だけ書いたら1ページ半にもなってしまい、達成感とはまた違う疲労感みたいなものを感じた。

自分でも日記本を作りたいなと思ったときに、「手書きの日記を本にしてみたら面白いんじゃないか」と思って始めてみたことなので、誰にも見せない自分のみに向けた記録/日記、というよりかは、ぼんやりと第三者の視点を意識しながら書いている。だからなのか、人とたくさん歩いたり話したりした日の日記は特に、どこからどこまで書いたらいいのか分からなくなる。幡ヶ谷〜下北沢間をただ歩いて往復しただけなのに、こんな音楽を聴いたとか犬も歩いていたとか、そういうことをつい説明したくなってしまうんだけど、でも削ぎ落とすところは削ぎ落として余白をもたせることで、個性が出るというか、大げさな表現かもしれないけどそれが一つの芸術になるのかもなあとも思っていて。わたし自身が日誌みたいな日記より、どちらかというとその人の思考や感情が表現された日記の方が好きなのもあるかもしれないけど。

誰にも見せずにひっそりと書き溜めて、あっと驚くタイミングで良質な日記本を出せたらそりゃかっこいいなとは思うけど、でもわたしにはそれはできないと思った。きっと良くない方向に爆発させてしまう。日々インターネットでいろんな人の日記を読んだり、いろんな人の作った日記本もいくつか知るなかで、「日記」そのものにも「日記本」にも正解がないのは分かっているつもりなんだけど、いざ自分がその正解のなさの渦中に飛び込んでみるとものすごく不安になる。日記って本来読まれるために書く文章ではないのに、それを本にしようと思うと、どうしても第三者に読まれることが前提になるからだろうか。

ということで、手書きの日記も書き進めつつ、はてなブログの方にも一旦小出しにしてみることにした。はてなブログのほうはかなりてきとうに、疲れないように書くつもりだし、手書きの日記とは同じことを違う言葉で書いていたり、全然違うことを書いている日もあるけどそれでいいかなと思っている。その上で、5月ごろには完成させたい日記本をどういう形式にしようかを探っていきたい。日記に沿った文章と、それとは全く異なる文章が今のところできていて、そもそも「日記本」と呼べる形式の本になるかも定かではないのだけど、5月には何かしらの形で紙にしたい。そしてできた本を対面で売れたらうれしい。