というセリフがある。
『わたしは最悪。』というノルウェーの映画の一節で、主人公の女性・ユリヤがパートナーに別れを切り出す場面で発するものだ。
わたしはこの映画を3回ほど劇場で観ていて、最初はこのセリフの意味が全く理解できなかった。というか、この映画の何が良いのか自分でもよく分からなくて、分からないのにものすごく惹かれるものがあって、だから3回も観に行った。同じ映画を何度も観に行ったのはこれが初めてだった。(当時は映画館で働いていて年100本のペースで映画を観てたんだけど、それでも観たい映画は常にあったし、そもそも「好きな作品を映画館で何度も観る」ことにあまり価値を見出していなかった。)
日本語では「愛してるけど、愛してもいない」と翻訳されているけれど、実際のセリフはどういう言葉が使われているのだろう?気になって少し調べてみた。
ノルウェー語は分からないので、英語字幕の予告編を探してみると「Yes, I do love love you / but also don’t」もしくは後半だけ変わって「〜 / but I don’t love you」と翻訳されている2パターンが見つかった。
どちらが正しくも間違ってもいないのだろうけど、個人的には前者の「also」という単語がしっくりきている。
これから書くことはあくまでわたしの個人的な解釈なので、そういうものとして読んでほしいのだけど、このセリフは「(あなたのこと、あるいは、わたしたちのことは)愛してるけど、(あなたといるわたし自身のことは)愛してもいない」という意味なのではないかと思っている。
パートナーのアクセルは年齢がひと回り上の男性で、漫画家としてそれなりの地位や名声を得ている人だ。新刊の発売記念パーティがあればたくさんの人が集まるし、自分の作品が映画化されるまでになって。
一方のユリヤは、勉強ができたので医学科に進学したものの、自分は人間の身体ではなく内面に関心があることに気づき、思いきって心理学に専攻を変えてみる。しかし写真にも興味があることに気づいてしまったので、これまでの学歴をキャンセルし、書店でアルバイトしながら写真家への道を歩み始めていた。
そんな中で出会ったアクセルと惹かれ合い、彼の家に転がり込むようにして暮らしを共にするわけなんだけど、ある日の友人たちとの食事の席で、自分のオリジナリティが尊重されないまま著作が映画化されることへの不満を撒き散らしている彼を横目に、ふと違和感を感じてしまう。
その不満の内容に対しても、そんな人の隣に、当たり前のように自分がいることに対しても。
このシーンは、あらゆる意味でユリヤの「自信のなさ」みたいな気持ちが表れているように思った。
パートナーにはちゃんと愛されていて、幸せに暮らせているはずなのに、心のどこかにぽっかりと穴が空いている。なぜこんな気持ちになってしまうのだろう?そもそもこの気持ちはいったい何?自分でもよく分からない。自分もその人のことを愛しているはずなのに、ものすごく寂しいと感じてしまう。
幸せを具現化したような今のこの暮らしはとても価値のあるものだと、頭では分かっているのに。
本編を観ると、ユリヤのこの「不安感」とか「自信のなさ」みたいなものは、彼女が女性の身体を持つことにも大きく由来していることが分かる。
子供を望むひと回り年上のアクセルと、出産や子供をもつことに不安や疑問を感じているわたし。今の自分のまま子供を産んでもいい母親になれる自信がないのに、ひとたび出産してしまったら、どうしたって「母」になることからは逃れられない。
そんな気持ちを、アクセルは分かっているようで分かってないし、そもそも自分とは異なる性別の身体を持つ彼に、本当の意味で理解してもらえる日が来ることはないのだと、うっすら気づいてしまう。
そんなユリヤはどんな選択をしたのかと言うと、偶然紛れ込んだパーティーで出会った別の男性のもとへと走っていったのだった。
その人は自分と同年代で、自分と同じく子供を望んでいない。一見すると「浮気だ!」となりかねない描写なんだけど、彼のもとへ走っていくユリヤは劇中でいちばん幸せそうな顔をしているのだ。誰にも彼女の選択を咎める権利はない。
1日だけ彼と過ごしたあと、アクセルと暮らす家に帰ってきた彼女は別れを切り出した。
アクセルは混乱した様子で「自分が何を壊そうとしているか分かっている?」と問いかける。
もちろん分かっている、だから苦しい。
アクセルは何度もユリヤを引き留めるが、もう気持ちは変えられない。そして冒頭のセリフを口にする。
「愛してるけど、愛してもいない」
(…これは本当に偶然なのですが、ちょうど今日からPrime Videoで見放題配信が始まっているそうです〜〜気になった方はぜひ)