祝杯をあげる

日付とか分からなくなってしまうな。それくらい今はぼんやりと生きている。眠らせてはくれない古本屋を出たあと、友だちと電話しながら貼らないつもりの貼るカイロをファミマで買ってしまったのが果たして深夜の何時だったのか、覚えていない。知らない街に行きたいよね、と話してくれたのでわたしたちが愛してやまないあの子の暮らす甲府や韮崎について、ひとつやふたつ。美味しいカレー屋さんと、何より誇れるコーヒー屋さんがいくつもあって、素敵なチューリップ屋さんだって暮らしているあの街を、あなたはきっと気にいるでしょう。今度シダだらけの魯肉飯屋さんで祝杯をあげた時にでもぜひ話を聞けたなら、わたしはとても喜びそう。

 

・・・

 

さあて、わたしはたおやかに大きな決断をしましたよ。たおやかというのがどういう意味か、全然分からないけど音が好きなので使ってみる。穏やかに、たおやかに、タオルケットは穏やかに。わたしたちはわたしたちのことをもっと大事にしていいというか、実は初めから互いに見い出していた、わたしたちの間に宿るやわらかい光を見ないフリしてやり過ごすのはもうやめませんかと、そういう話を今はあなただけにしたいです。そういうタイミングであの映画のリバイバル上映がやってくるのだから、言語に頼らずともわたしたちはわたしたちを信じることができると、そう、思わせてくれてもいいんじゃないかな。互いを必要とせずに生きるにはそろそろ限界を迎えていませんか。孤独はひとりではないって源さんも言ってることだし、暖炉のある家での犬と暮らすことやためらわずに新しい本を買う生活を、わたしたちの速さで目指していくのもいいんじゃないかと思うんです。わたしたちだけの屋根の色を選ぼう。ふざけた生活を続けよう。丁寧な愛とか、ユニークな進化の礎はここにある。あなたの寂しいやわらかさをわたしは知っている。

あららら随分とてきとうに喋ってしまったかしら。まあいいか。愛ってこのくらいてきとうに喋っていいし、みんなもっとベッカムヘアの広瀬すずを見習ったほうがいい。隣のサブちゃん演歌スクールにばかり目が行きがちだけども。ところで、いつまでも待てるけどいつまでも待てるとは言わないでおくよ。待ちくたびれてはいるからねえ。