わたしの愛はわたしのもの

スマホのメモより:恋愛する人に「恋愛しないこと」を説明するのってものすごく難しい

 

先日、友人と飲みに行ったときのこと。

その人と会うのは3週間ぶりくらいで、会わない間に恋人ができたのだという。表情の一つひとつから、言葉の節々から今の「恋愛している状態」「恋人がいる状態」の楽しさが伝わってきたし、わたしもそれはとても素敵なことなんだろうなと思った。その人は5分に1回くらい「恋したほうがいいよ」と言う。その気持ちはとてもよく分かるが、わたしにはそれを羨むような気持ちもなかったし、「じゃあ恋人がほしい」とも思わなかった。

最近自分について分かってきたことのひとつに、「おそらく自分は恋愛をしないんじゃないか」というのがあって。自分が誰かと恋愛をすることとか、恋人がいる状態や誰かと「付き合う」ということに対して感じる、嫌悪感とも言える違和感に、自分の中でやっとしっくりきたところだった。だから、この友人にも自分が「恋愛をしない」ということを少し話してみたけれど、わたしの説明が下手なのもあってかどうやらあまり伝わってないようで、どうやってもその人の目に映るわたしは「恋愛をする人」から逃れられなかった。そうやって自分が見られることに、やはり強い違和感があった。

数日前に一緒に映画を見たりコーヒー屋さんに行ったりなどしてほぼ一日一緒に過ごした別の友人(仮にAさんとします)がいて、わたしの性別とAさんの性別が違うことから(そもそもわたしが現在自認する性別は女性でも男性でもないので、多くの人と性別が異なりうるのですが、それについて書いてしまうとあまりに長くなってしまうのでひとまず割愛)、俗に言えばこれは「デート」なんだろうな、というのも分かりつつ、Aさんと過ごした時間はとても楽しかったし、会ったのは1年ぶりだったけど変わらずAさんはわたしにとってすごく大事に思える人で、とても好きだなと思った。この「好きだな」は恋愛感情には基づかないところの「好き」だと自分では認識しているのだけど、このことを一緒に飲みに行った先の友人に話してみたら、この「好き」を「恋愛」だとジャッジされているみたいで、その場ではお酒も飲んでいたし楽しい気分だったので流してしまったけど、あとあと思い出してものすごく腹が立ったのだった。

なぜ、わたしが大事な人に対して感じている愛を「恋愛か、そうじゃないか」と他人にジャッジされないといけないのだろう。そのことに、わたしは静かに怒りを感じている。わたしの愛はわたしのものだ、と強く思った。

 

セクシュアリティは今後生きていく中でいくらでも変化しうるものなので、わたしは自分のジェンダーやセクシュアリティについて具体的な名称で断定することはしないでおこうと思っている。今のところ。

なので断定はしないが、やはりわたしは恋愛をしない人なんだと思うし、これからする可能性があるとしても限りなく低いと思っている。でも、恋愛はしないと思うけど、パートナーというか共同生活者みたいな人がいたらいいなとはずっと思っていて。恋愛をしないからって、それだけの理由でひとりで生きていかなくちゃいけないのか?恋愛ではないパートナーシップがあると思いたいし、恋愛関係に基づかないパートナーとの生活が可能であると思いたい、そう信じたい。

一方で、こういう考え方をすべての人に理解してもらうのはおそらく不可能であることにも、なんとなく気づいている。すべての人でなくとも、身近な家族や友人にすら、理解してもらうのはきっと容易ではないと思う。でも、恋愛ではないパートナーシップや、そんなパートナーとの生活を実践することが可能であるということを、1人でも多くの人に知ってもらうには、誰かが実践していくしかないのだと思う。できるのならわたしが、それを実践する人でありたい。

 

参照(?):ヤマシタトモコ『違国日記』